伝説の男の物語

10年ぶりくらいに観たですよ。「シド・アンド・ナンシー

最初に観たのは深夜放送で、時々挿入される幻想シーンがあまりにもアレだったんで途中で寝ました。

で、その後90年代半ばにビデオで観たのですが、その時は時節がらこの人を連想せずにはおれませんでした。

間違えた・・・

この人ね。(だって上の「マイ・ウェイ」のシーンなんか歩き方まで一緒やし)

自らの虚栄心と自己顕示欲と野獣の本能が作り出した「内なるモンスター」たる「横山やすし」というキャラクターに自ら翻弄されながらも酒の力を借りつつエンターテイナーとしての本分を全うしようとした「あの男」ですよ。

シド自身も「シド・ヴィシャス」というモンスターに翻弄されながらも健気に前向きに人生を歩もうとした風に描かれてるし、この連想は的を得たもんだったと思います。
(ということはマルコム・マクラーレン横山ノックか?)

まぁ、アレックス・コックス監督はこういう破天荒な男の実話を描きたかったんでしょう・・・ 




それだけでは、一々癇に障ってた「ファンタジックな幻想」のシーンが説明つかん、というわけで色々考えた結論。

1.この映画の登場人物は全て実在の人物であり、事件も事実である。そして多くの人の間で「伝説」となっている。

2.しかし「伝説」という形態では映画全体が「特定の人」の「特定の事件」ということになり、観客は話にのめり込めない。

3.そこで、この具体的、客観的な事象を一旦監督さんの頭の中で抽象的、主観的なイメージに置き換える(イメージング)

4.そのイメージを観客に示すための装置が「幻想シーン」である。これによって「特定の事象」は現実から切り離されて どこにでもあり、誰の身にも起こりうる「不特定の事象」へと昇華する。

5.以上の手法により「不特定な事象」は誰にでも理解できる「むか〜し、むか〜し、あるところに・・・」というような「物語」として表現されることとなり、観客は自身の実体験に「物語」を当てはめることで映画の内容を頭の中で消化する。

とまあ、この手法によってお客さんが映画にのめり込めるようになる、ということだと思います。


確かにそういうことを頭に入れて3度目に観た「シド〜」は、いろんなシーンで身につまされるところがありましたよ、ええ。


そして00年代において最もシド・アンド・ナンシーを感じさせる人たちは和泉元彌とその母節子であるという発見もありました。


追記

この記事は「伝説と昔話」に関する解説を参照して書いたんですが、元となる資料が特定できないので興味のある方は図書館に行ってそれらしき本を参照してください。