発展から拡散へ

さぁ、懲りずに「ジェシー・ジェームズの暗殺」について書くぞ!


第1部 模倣者の苦悩

この映画の「英雄」ジェシー・ジェームズをその追っかけである「へタレ」のロバート・フォードが暗殺する、という筋書きを見て多くの方はこれを思い出すんではないでしょうか?

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アラン・ドロン出世作のこの作品で主役のドロンさんは1950〜60年代のアメリカを生き、ヨーロッパに渡った青年トム・リプリーを演じてるんですよ。
このトム・リプリーという男、貧しい生まれを嫌い上流階級の御曹司グリーンリーフと仲良くなって彼を暗殺、その後、グリーンリーフになりすまし「彼の人生そのもの」を奪おうとするんですが・・

このリプリーさん、原作の方もシリーズ化してて1970年代にはデニス・ホッパーリプリーに扮してこんな映画も作られます。

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デニス・ホッパーがジェームス・ディーンの弟分であったのは有名な話ですが、この映画でのリプリーはジミーを最もよく知るホッパーさんがジミーをモデルにしてリプリーを演じてるようなんです。

というのもジェームス・ディーンという男はそもそも

で1950年代に大スターだったマーロン・ブランドに憧れ、ひたすら彼を模倣して(本人から怒られて)模倣に挫折して、今度は彼から「理由なき反抗」の主演の座を奪って「反逆児」のイメージを自分のものにしようとした男なんですから。



2008年の現在でも、「ジェシー・ジェームズの暗殺」なんて映画が公開されてるわけなんで、1950年代にジェームス・ディーンやアラン・ドロンが扮したトム・リプリーが抱えた苦悩というのは現在進行形でアメリカ人が抱える苦悩なのかも知れません。


第2部 森の中


ジェシー〜」は風景描写が非常にキレイと評判の映画でして(雪が草原一面に降りしきるシーンで出演者は誰も息が白くなってない!つまり人口雪を地平線まで降らしたのだ!)それらを注意深く観察すると面白いことに気付きます。

「むか〜し、むかしあるところに」

というのは昔話の語り口なんですけど、昔話って登場人物が森の中(日本だったら山の中か)に入っていくシーンをよく見かけませんか?
これ、心理学の専門家さんに言わせますと「森」というのは人間の深層心理の部分のことで森の中に入るということは自分の知られざる心の奥底に入っていくことを表しているんだとかいないんだとか(すいません、はっきり覚えてません)。

で、ジェシー・ジェームスが森の中に入っていくシーンはあるか?といいますと、それに対応してるシーンが確かにありました。

ジェシーが真冬の凍った湖の上を馬で歩くシーン。

そこでジェシーは馬を降りて凍った水面を覗き込み、そして、何故か水面に向かってなのか(銃を向けるシーンがない)銃をぶっ放します。その後、ジェシーが去って行ったあとで再び水面のカット、水面には氷の下を泳ぐ魚とどこまでも深く暗い湖の世界が広がっている・・・・

という感じなんですが、そのシーン、どうやらジェシーは水面に映る自分の姿を見ようとしていたようなんです。水面に映る自分の姿に銃を撃つジェシーは一体何を思っていたのか・・・・

そして、暗殺されるシーン、これは史実として有名なんですが、自分の家の中で壁にかけてある絵画が傾いているのを直そうとしてフォード兄弟に後ろを向けたところを射殺されてるんですよ。

映画では直そうとした絵画の額のガラスにジェシー自身と暗殺者ロバート・フォードの姿がハッキリと映るんですね。そしてジェシーはそれに気付いても動こうとしない。

湖のシーンというのはどうやらこの暗殺シーンの伏線になってたようでして、ジェシーの心の奥底に秘めた何らかの願望を表しているシーンだったんですな。
ただ、ジェシー自身は自分が何を求め、何をしたいか、ということに関しては自分自身で理解してなかったんではないかと。だからそれを探るために湖に行ったということではないでしょうか?

さて、ジェシーが望んだこととは一体?


第3部 イメージ対実物

ジミー・ディーンの理由なき反抗にはこういうセリフがあります。

「一人がああ言えばもう一人がこう言って!僕を引き裂いてるんだぞ!」

ということで、自分の評判を複数の人から聞かされて、アイデンティティ(自己同一性)が崩壊してしまいそうになる心情を訴えるシーンなんですけども、これをジェシー・ジェームズの場合にもこの苦悩があてはまるんです。

というのもジェシー・ジェームズという男は義賊として新聞(つまりメディア)に祀り上げられて様々な伝説が作られた人でして、その名が売れるに従って無数のイメージが氾濫、ジェシー・ジェームズという一人の人間としてのアイデンティティは揺らぐ一方だったんではないでしょうか?

そこに表れたジェシー・ジェームズのパブリックイメージの模倣者ロバート・フォードというのはジェシー本人にしてみれば悪夢に出てきそうな「自分を押しつぶすもう一人の自分」そのものであったのではないかと。

しかし、ジェシーはロバート・フォードを自分の側から離さない、おそらくいつの日にかあのジェシーもこのジェシーもそのジェシーも一つにまとめてアイデンティティを取り戻したいと思う願望があるからだったのでは?と思えてきます。(あるいはそれら全てを破壊したかったのか)


第4部

ドイツ文学には「発展小説(教養小説とも)」というジャンルがありまして、人間の人格形成、成長をテーマにした小説なんですが、どうもアメリカの文学というのは英語で書かれているけれどもこの発展小説的な作品が多いようでございます。

太陽がいっぱい」の原作(上に紹介した「緑のハインリッヒ」の影響大)しかり、「かもめのジョナサン」しかり、映画では「イージー☆ライダー」なんぞはモロにその辺の影響が出てやす。

で、乱暴なんですが「ジェシー〜」というのは史実を基にしたアメリカ型発展小説の最新バージョンなんではないかと。


かつてチェコの文豪カフカは「自分の作品群が最後の発展小説」と述べ、現代版発展小説の道を模索したヴィム・ヴェンダース監督の映画はどれも無目的に呑気な珍道中を繰り返す作風(終いには全てをなかったことにしようとすらする)だったりと、最早前世紀に終焉を迎えてしまったジャンルである発展小説ですが、現代人の場合は「最早拡散する一方のアイデンティティをテーマにしてて、「自分探し」とか「愛国心」とか「〜系」とか「ちょいワル」とか結局何やっても成長、発展はなく自我の切り売りにしか過ぎないことを高らかに宣言してるように思えてきてしまいました。