純愛地獄

え〜、前回に引き続いて「LOFT」について書きます。

その昔日本に聖書におけるアダムとイヴにあたるイザナギノミコトとイザナミノミコトというのがおりまして、女性のイザナミの方は先に死にまして黄泉の国にいっちゃいます。

で、イザナミにもう一度会いたい一心でイザナギは生きたまま黄泉の国に行ってイザナミと再会するんですが、果たして再会したイザナミというのがいい感じで腐敗した死体の姿だったわけです。

「うわ!!キショ!!!!」

と一言もらして自分から会いに行ったくせに女の姿が変わってたからって全力疾走で逃げ出すんだから男ってワガママねぇ。というお話なんですが、それからおそらく1600年くらい経ったであろう平安時代にはもはやそんな恋人達の憂いは消滅します。

平安人は文字によるコミュニケーションに長けていたようでして、相聞、挽歌なんて和歌に想いを託して、自分の感情を完全に現世から切り離し、相手とスピリチュアルに心の交流をすることに腐心してたんですな。

どうも平安時代というと、生活の不安のない、ユートピアみたいな世界であったと勘違いされたりするんですが、これは文字になってる精神生活の部分だけを古典の教科書で覚えたためにおこる錯覚です。

実際には庶民は極度の貧困にあえぎ、渉外能力がこの頃から一際劣る大和民族貿易赤字をしこたま抱えて大陸からは舐められっぱなしだったわけです。
(ここらへんが一部で日本とよく似た国とされるイギリスとは対照的な部分ですな)

しかし、そんな客観的事実を追ったところで平安人の精神世界というのは理解できる代物ではなく、彼女とデートに行くのに車が欠かせないような物質文化に首までドップリ漬かった現代人の想像を遥に超えた世界が平安の愛し合う二人の間には広がっていたんですな。


さて、この映画の主人公、過去の栄光を引きずって生活のために恋愛小説を書かされるが、実体験がないためか一向にペンが進まない作家(中谷美紀)と影のあるニヒルな考古学者(豊川悦司)の二人なんですが、これがまた見事なまでに上記した平安人からしたらあさましい連中と思われて然るべき手合ということになりますな。

で、千年前の貴族の美女の亡霊に悩まされる考古学者さん、この考古学というのが歴史の客観的事実のみを自然科学によって解明する学問なんですが、この亡霊さん、存在自体で自然科学やら生命倫理やら時間の観念やらといった考古学者が今まで信じてきた世界感を構築する概念の全てを否定するわけなんです。

実存を否定し、愛し合う(?)二人だけが存在する愛の楽園(宗教用語では「地獄」というが)にいざなおうとする平安の美女。「あんたが今まで見て来た、信じてきたもの全ては取るに足らないものなんだ」と宣告されて、生きる自信を失くす学者、それを本人初体験の「真実の愛(21世紀バージョン)」で救おうとする作家。

そこに表れる「もう一人の女(安達祐実)」・・・・というところで世界のクロサワこと黒沢清ワールドが最高潮に達するんですよ。



この映画、名の通った役者さんたちの「手の演技」が素晴らしくって、豊川と中谷の熱く抱擁するシーンなんて中谷を抱きしめる豊川の手が「蛸の美女責め」のように動いてて本当にいとおしい相手を抱きしめてる感じなんです。
対する中谷も負けじと豊川の胸の中に頭をぐいぐいと押し込んできて変身合体ロボよろしく一つに合体しそうな迫力でした。もうまるで大相撲の名勝負を見てるような、そんな感じ。

そして「手」といえば、昔から幽霊のイメージというと顔と手が暗闇に浮かんでるのが定番ですな。

どうも人間が人間を認識する時には顔と手を見て相手を認識するようでして、おそらくそういうところから一般的な幽霊イメージが出来上がってるんでしょう。この映画でもそういう部分が効果的に使われております。


そして、

「都合の悪い事実はスルーするのが考古学者さんの方針らしいですね」

という衝撃のラストで安達祐実の起用の真相がわかるという結末には、みんな度肝を抜かれるでしょう。(僕は大爆笑したけど)