変態島ん

前回に続き「変態島」の解説だす。面倒くさくなったのでチャッチャと切り上げて次回は今年最高の話題作「パブリックエネミーズ」について書きますんでよろしく。

本当はタイトルの「変態島ん」のダジャレがやりたかっただけなんですけどね。この企画。

実際僕がこの「変態島」について解説できるのはお話の30%くらいの部分でして正直よくわからん部分もたくさんある映画です。
頭で考えるんではなくて心で感じてもらえる部分を実際に観て理解していただければと思います。

例によってネタバレなので以下全部白字とさせていただきます。

え〜と、主演のエマニュエル・べアールさんが津波で行方不明になった我が子・ジョシュアの消息を求めてタイの風俗街を歩き回るシーンが最初の方にあるんですね。
人間の価値が極めて低い、物として扱われる世界に安全圏から逸脱して足を踏み入れたことを暗示する重要なシーンでして、独特の映像美を駆使して描かれております。そしてそこから「何か」が生まれます。
そんで、人身売買が行われているルートを遡ることによって我が子を探す富裕層欧州夫婦の前に現れる梅図かずお似のブローカー;タクシン・ガオ。このオサーンの案内で異様なくらいあっさりと(笑 人身売買用の子供たちを調達するミャンマー国境地帯の「シージプシー」と呼ばれる人たちが住む貧乏部落のある島へとたどり着くんですが・・・

ここの住人というのがはっきり覚えてないんですがミャンマーから逃げてきた少数部族の人たちで貧しくて生活できなくなって子供をブローカーに売っちゃうんですね。悲しいかなこれが現実。
さて、そんな貧しい村人を尻目に我が子求めて夫の静止も振りきり、私財を投げ打って後先考えずに進むエマニュエルお母さん、息子がいなくなってからというもの、息子への熱い想いをノートにイラストで描き綴り、我が子の写真をコラージュして後生大事に持っているんですが、あまりにもその姿が病的でいたたまれないので夫はそのノートを川に捨ててしまいます。そして息子はおそらくもう死んでしまっていることを必死で説くのですがエマニュエルお母さんの暴走は止まりません。
そうこうしながら水曜スペシャルよろしくさらに貧乏な村がありそうな島の奥地へと進んでいくご一行。あったあったありました。さらに貧乏な「変態村」で獣姦やってた家畜小屋みたいなところ(笑 に住んでる人が。
ところがそのお宅に入ってみると不思議なことに怯えた様子の老人たちと子供たちしかいないんですね。大人がいない。そして、子供の一人がエマニュエルお母さんに おにぎり を差しだします。そしてそれを一心不乱に食べるお母さん。
「変態村」の時も「はだかの大将 meets 悪魔のいけにえ」といった印象でしたが今回もやっちゃいましたか。どう見てもエマニュエルお母さんが山下画伯に見えてきます。
さて、大人がいない理由なんですが、ここは映画の中ではぼやかしてるんですが、子供たちが貧しさに耐えかねて自分たちを売る親に対して怒り、団結して蜂起。親、というか大人たちをあの世に送って力の弱い老人たちだけ残し、井筒監督もびっくりの「ガキ帝国」を築いていたのです。(なんでか知らんが男の子ばっかり)

そんなわけでブローカーが島にやってきたのをガキ帝国の面々は「待ってました」とばかりに血祭りにあげます。この時点で完全に正気を失っているお母さんを連れて夫は寺院の遺跡の中に逃げ込みます。
寺院の奥にたどり着いた夫婦の上から何故か川に捨てたはずのエマニュエルお母さんの大事な大事な「我が子のコラージュ本」のページがパラパラと落ちてきます。
「ジョシュア!!」
と叫んで崩れた壁を駆け上がるお母さん。それを追いかけるべく寺院の外に出た夫が見たものは、ガキ帝国に完全に包囲された悪夢のような光景とそこに同化したお母さんの姿だったのです。

そう、ガキ帝国の面々は川で捨てられた「お母さんのコラージュ本」を拾い、我が子のために私財を投げ打って捜索を続けるお母さんに貧しさ故に自分たちを売り飛ばそうとした実の親からは得られなかった「子を想う親の愛」を見出していたのです。コラージュをパラパラ落としていたのは「お〜い、あなたはこの本のお母さんですか〜?」という問いかけだったんですね。

その人が描いた絵を見てその人の素性がわかるっていう展開はやっぱり「はだかの大将」なんだけどその辺に触れると長くなるので割愛します(笑
ガキ帝国に「お母さん」認定されて寝返ったエマニュエルさんが薄情というか現実主義者の夫にこう言います。
「あの子を解放して」

この言葉の意味するところが実は深いんですが、このシチュエーションでは「他の子に我が子の面影を見出して我が子同様に愛する自由をよこせ」ということではないかと思います。「特定の誰か」でなくて「不特定のみんな」を愛することを容認しろと。



とまぁ、こんな感じで解説してみたわけですが、「親を殺して自分たちだけの世界を作りつつある子供たち」っていうのが植民地支配から解放されて野に咲く花のように独自の文化を新たに築こうとする旧植民地の人たちの気概の表れで、それを阻害するかのように利権にしがみついて居残る一部の西洋人に対して「とっとと失せろバカ!!」と言い放ちたいのが今回の映画のテーマかなぁ、と思ったりしました。

子を想う母の愛情と親から愛されたかった子どもたちの想いがめちゃくちゃご都合主義ではまるところとか、まるで「需要と供給」の関係を絶対の神の理であるかのようにうたう新自由主義とそれに立脚するグローバリゼーションを皮肉ってるようにも見えるしね。

というわけで今回は「母性愛」をもとに「反グローバリゼーション」とか未だに残る植民地主義の呪縛とそれに立ち向かう地元の人間の苦悩みたいなのを描いていたと思うのですがいかがでしょうか?


そして「変態、変態」言いつつも本当にこの監督が描きたかったのは「はだかの大将 山下清画伯」の偉大さであることは間違いありません。(←しつこい)