クリスマス・プレゼント

最近「変態村」について書いたら「変態村 結末」 で検索してくる方がいらっしゃいます。

なにしろシュールな映画ですから見ても意味がわからかった方なのかと思い本日はクリスマス・プレゼントとしてこの映画について白字で解説いたします。
解説ながらネタバレになりますのでどうかご覧になる方は悪用(中傷目的で結末を知る等)などなさらないようにお願いします。
この映画について深く理解したからといって自慢にならずに変態扱いされるだけです。

とか言いつつファブリス・デュ・ヴェルツ監督はこの先間違いなくカンヌのパル厶ドールを取れる逸材だと思っておりますので好むと好まざるに関わらず勝馬に乗りたかったら観るべし!です。






さて、最初に冒頭の主人公マルクくんがショーを終わらせて楽屋でメイクを落としてる時に老婆が現れて文字通り「自らの全て」をマルクに捧げようとするシーンなんですが、これはアレですよ。僕がアレコレ書くよりもマルグリット・デュラスの「モデラート・カンタービレ」をお読みになった方がいいかと思います。

モデラート・カンタービレ (河出文庫)

モデラート・カンタービレ (河出文庫)

女が男に全てを捧げプライドがボロボロになって後戻りもできない、という状況に一瞬で心の動きの中で陥るという「モデ〜」のテーマをうまく表現してますね〜。さすがはホンマモンです。

そして、その後あれやこれやで怒涛のラストの展開なんですが、キチ○イの村人の手から逃れて荒野をさまよったマルクくんは十字架に貼り付けにされたミイラを発見します。これがおそらく村人が「いなくなってさびしい」と言っていた人なんだと思います。

そんで、凄まじい暴行の後で寒空の中一昼夜歩き倒したマルクくん、そのミイラを見た途端表情が変わります。
これは彼が「自分はキリストである」ということを自覚し、冒頭の老婆の件からずっと謎のままだったマルクくんの正体が観客にはじめてわかる重要なシーンなのです。

彼がキリストということはですよ。今まで主人公に感情移入してたはずの観客はこの時点で的外れな感情移入をしていることになるわけなんですね。そして、キ○ガイやら冒頭の老婆やらはイカレてるように見えて実は観客と同じ立場の「神様に愛されたい」と願い道徳を尊び社会規範を遵守する(それが果たして神が示した道かどうかは定かでないのに) 普通の人間 ということになるわけなんですね。まぁ、普通の範疇に入ってもイカレてるのは間違いないですが(笑

そしてマルクくんを追いかけまわしてた村長のロベールさん、運悪く底なし沼にハマってしまいます。絶対絶命です。それを尻目に今がチャンスと逃げようとするマルクくん、しかし後ろからロベールおじさんの声が

「待ってくれ、私を愛していたと言ってくれ、ずっと私を愛していたと」

この「愛していた」というのが「異性に好感を持っていた」というのとはちょっと違うんですね。これは「神の寵愛」のことなんです。

神様に愛されていなければ、死んだ人間は地獄に堕ちてしまいますから、死ぬ前にキリストたるマルクくんに愛を乞うたわけなんです。
そのキチガ○の長ロベールの申し出に答え引き返したマルクは臨終のロベールに「私はあなたをずっと愛していた」と告げて物語は終わります。

この映画のテーマっていいますのが、キリスト教の歴史によく見られますような「神様に愛されようと努力してるはずなのに行動はあさっての方向に行っている」現象を描いてるわけなんす。十字軍しかり、魔女狩りしかし、ホロコーストしかり、アメリ宗教右翼しかり、で。

マルクくんのキリストの再来っていうキャラクターについては何でこんなこと思いついたのかわからないんですが、キ○ガイたちに焦点を当てた作品なんであまり深く考えない方がいいと思います。

さて、ファブリス・デュ・ヴェルツ監督なんですが、この人の名字、貴族の称号である 「DE(〜から来た)」がついてそのあとに定冠詞の「LE」がついてそれがくっついた形の「DU」になっとるんですね。

そしてその後ろの「WELZ」なんですけどもドイツ語で世界を表す「WELT」と綴りが似てて西洋言語には間違いなく「世界」の前に定冠詞が付くので間違いなく英語に直すとFabrice of the world みたいな名前になると思います。
こういうヘンテコな名前というのは大概ユダヤ系の人なんで(典型的なのはアメリカの俳優ヘンリー・フォンダ。VON(フォン;〜から来た)にDA(どこそこ)で「どこそこから来たヘンリー」みたいな意味になってますから)この監督もそうなんでしょうね。あのキチ○イたちは第三者目線で見たキリスト教徒っていうことではないでしょうか?


さて、明日は「変態島」について解説してみたいと思います。