誤解されるハリー

え〜、というわけで前回に続いて「だてはり」ことダーティーハリーについて書いてしまいます。

といいますのもネット上での個人のサイトやブログ、映画レビューを投稿できるサイトなんかを見ますと

「60年代後半から70年代前半のサンフランシスコなんてのは『ラブ&ピース』だの『ノー・モア・ウオー』だのと『フラワーチルドレン』なやつらがベルボトム履いて長髪で叫んでた汚らわしいところだったんだけど、われらがハリーはそんなケタクソ悪い連中にマグナムで制裁食らわすんだからこれが面白くないわけない!」

とか

この映画のテーマでもあるミランダ法については今でも議論の余地があると思う。容疑者の人権を保護する法律が存在するなんて馬鹿げてるし被害者遺族の感情を逆撫でするようなものなんだよね。」


という内容の映画評がですね、ずらずらと出てくるわけなんです。そんで内容は言葉は違えど上記二つのことを延々つらつらと書き並べてるだけで。
んで、こういうことを書いてる人たちが次作の「ダーティーハリー2」にどんな感想よしてるんだろう?と思って調べてもほとんどの人がスルーしてるんですよね(笑

個人サイトやブログならいざしらず映画評を書き込めるところにこういう書き込みする人たちってなんか工作員くさくないですか?っていう疑問がどうしても浮かんでくるんですよね。だってミランダ法なんて日本人が普通に知ってるわけないじゃないですか。

というわけで、上記のような書き込みを繰り返す輩をどこぞの宗教右翼に雇われた工作員であると勝手に認定して(認定されたくなかったら「だてはり2」のレビューもちゃんと書け)彼らはデタラメを書いてるので無視してください、と世間様にアピールしておこうと思うです。


まず、その1

犯人のスコルピオはヒッピーやフラワーチルドレンではない。

彼の恰好見たらわかると思うんですが、長髪ではあるけども当時の流行りのヘアスタイルはボリュームを抑えた「ぺチャ」っとしたワンレングスの長髪なんすよ。くせ毛の人はヘアクリームつけてます。(当時の若者向け雑誌にはヘアクリームの広告が大概載ってたはずです)スコルピオ君、ボサボサ頭でモテの要素皆無です。
次、上着の代わりにカーディガン着てるんですが、当時の若者でも外に出る時は上着は絶対着ております。それがGジャンやベストだったりするだけであって上着羽織るのは身だしなみですからね。彼は当時の若者像から見たらダサいんです。
そしてこれが決定的なポイントですが、彼のズボンは裾が広がってません。
それどころか、後半になってくるとリーバイスの501なんてマッカーシズム赤狩り)の嵐吹き荒れる50年代の風物詩アイテムとも言えるジーパン穿いてるんですねぇ。ピースマークのバックル付けて「私は温厚な人です」というアピールをしてはいますが、黒人と白人のゲイカップルを狙撃しようとしたり「自由を謳歌しまくってチャラチャラした(50年代を愛する人たちから見たら)ケタクソ悪い60年代の若者たち」に制裁加えようとしてるのは犯人のスコルピオの方なんですわ。

その2

ミランダ法という概念は作品中重要ではない、っていうか一言しか出てこない。
これも見ればわかると思います。そして話の都合上被害者遺族の感情もほぼスルー。
これは個人的な見解ですが、物語の後半からはハリーとスコルピオという二人の男が結局法律の埒外に放り出されて自分たちだけで決着をつけるという感じで話が進んでいってると思います。
いずれにしてもハリーというのはアイリッシュ頑固一徹オヤジですんで悪と対峙するときに「法律の加護」を必要としない、という大前提があるんですね。だからヒーローなんですよ。法律を盾にマグナムぶっ放すような卑怯な奴がヒーローとして崇められるわけがないんです。
もし、そういう「法律が味方してくんなきゃヤダ、マグナムだけじゃ心細いじゃん」なんて甘っちょろい考えの坊やがあなたの身近にいたら迷わず戸Oヨットスクールに叩き込んで性根を叩き直してもらうことをオススメしますよ。

「世間は薄汚れてるけれど、高潔な人として生きましょう」

というレイモンド・チャンドラーが推奨したハードボイルド哲学を

「甘い甘い!みずから手を汚して問題を解決する勇気がなければ世の中はちっともよくならないぞ。世の中が薄汚れてるのは世の中がお前のために存在するわけじゃないからだ!わかったか青二才が!!」

と否定して我が道を行くのがそもそも”ダーティー”ハリーなわけなんでそこんところをちゃんと理解しましょうね。
(とかいいつつも最近の「ダークナイト」みたいに自由な解釈を許さない細部までキチキチの演出をした映画よりは誤解や曲解をまねくような「スキマ」のある「ダーティー・ハリー」の方が素晴らしい映画だとは思うんですが)