乗り物と僕

え〜、このバットマンみたいなので登場する数々の乗り物たちなんすけど、どうも皆さんの心の中に響くものがなかったのかどちらさんも評価の対象にならんのですわ。

そこには単純に「見せ方が悪いんじゃないの〜?」、なんて浅いものではなくて何か深いものがあるような気がするんですよね。

例えば

これなんかだと主人公たちの苦悩の象徴として乗り物が登場するわけ。これ見て「キリストの受難」の話を思い出してくれたらありがたい。その場合乗り物が十字架の役割を果たす。


んで、これの場合主人公をタイトル通りの「消失点」へとつれていく道具として扱われるんだね。ただし自動車だからアスファルトの上しか進めない。道路という線の上を移動して最終目的地へといざなうんだね。この映画みて「ああ、これって実存主義がテーマになってるんだね」と多くの日本人に気付かせるのが僕のライフワークでもある。


というわけで乗り物というのはですね、映画に使われる時には何らかの哲学的な意味を持っている場合があるんですね。

乗り物はそれ自体が文化なんです

しかし日本人というのはそういう考えを頑なに拒みつづけてきた歴史がありまして、アメリカンニューシネマの中でもっとも日本人に受けたのが馬を失した「真夜中のカーボーイ」と物質文明の象徴としてしか車が出てこない「卒業」というのがなんとも悲しい限り。

でもバットマンみたいなのの監督のノーラン君みたいな英国のぼっちゃんじゃなくて映画をこよなく愛してそうなさほど豊かでないアメリカの民の心の中には乗り物というのが

非常にスピリチュアルな意味を持ってるんではないかと

そしてそれには「空間的概念の超越」という壮大なテーマがかくされているのであった!という話をしようとしたんですがしんどいんで次回。