カムイの夏休み

見て参りました。「カムイ外伝

キャスト、スタッフがなんともつかみどころのない面子でして、「これでカムイやるの?」みたいな感じはありましたです。

崔洋一は確かに北方謙三、内藤陳と並ぶ日本のハードボイルド御三家であり、「1作品1レイプ」のレイプを描かしたら東洋随一のへんな監督でもあるわけなんですよ。ま、でも師匠の大島渚が「忍者武芸帖」映画化したからその関係かな?とか思ったり。

んで、松山ケンイチねぇ、体格はギリシャ彫刻に勝るいいからだではあるんで美男子カムイを演じるのには十分の素質なのですがこの人の個性とカムイは正直、相容れん。

カムイはアイヌ語で「神(熊も)」のことで作品中いろんなもんを人間ながら超越しちゃうんですよね。人間を越えた能力を持つということではなくて存在が神的になるんで(表現しにくいな)生身の人間が演じにくい面がある。

原作の方の正伝「カムイ伝」は群像劇で封建時代の社会全体を包括的に見るという文字通り「神」の目線で進むのですね。
なかなか主人公のはずのカムイが出てこないんだけど作品が誰の目線で進むのかっていうとカムイ目線で進んでるっていう嗜好なのね。

んで、外伝の方は単純にアクション重視で進む時代劇なんだけど結局作者の白土三平が飽きっぽいのでカムイが変装やらなんやらで別のキャラになって出てきて全く違うドラマが進んでいったりとかするんですけどね。(つまりアイデンティティが欠落、いやそこから解脱してるんです)

結局カムイというキャラはつかみどころがなくて神秘的な感じがないとダメかなぁ、と思ってるんですが、この映画では「ただひたすらに自由を追い求める若者」としか描かれてないんですよ。

要は神的な部分を持ったカムイ兄さんが人間に戻れたモラトリアムな時間を描いているのです。


ルアーでシーバス(スズキのこと)フィッシングに明け暮れるカムイ

中学生くらいの女子に愛されてとまどうカムイ

子供たちに手品を見せて人気者になるカムイ


そんなカムイの楽しいモラトリアムも終盤には終わりを告げるんですがその終わり方というのがなんとも「風船がしぼむよう」というか「楽しかった夏休みが終わったみたいに」ホワンと終了してしまうんですね。ジャジャーン!!みたいな音楽もなく。

ここが崔監督が描きたかったことなのか、演出としては地味ながらインパクトがありましたね。具体的な事象を一旦頭の中のイメージとして抽象化して表現する「イメージング」というスピルバーグがよくやる手法なんですがかなり成功してました。

しかし、その「楽しかったモラトリアムの終了」を呼び起こすある出来事が崔監督が朝鮮系であることを鑑みると・・・





ぶっちゃけ今まで崔監督が撮ったどのレイプシーンよりもドギツイ展開でしたわ。