中二病映画の傑作

すっかり書くの忘れてたんですが、「B層向けタランティーノ」の異名を持ったガイ・リッチー監督の「リボルバー」です。

ラジー賞を総なめにして以降しばらく身をひそめていた監督(企画がハリウッドで通用せずに四苦八苦だったそうだ)が満を持して放つ大作なわけだけれど、なんというかね、ほら、この監督のファンってネットとかで調べてもわかるけどアレでしょ?

中二病丸出しな連中でしょ?

まぁね、こういう現象を「病」と称して一過性のものとするのもどうかと思うんですよね。一時の感情であったとしてもそれは人格形成というパズルの1ピースなわけで死ぬまで残っていくわけですから。

んで、中二病の症状ってのはよく言われてるんだけど、この症状の原因というのは僕の場合は


・思春期に入り、自我に目覚め出す

・しかし、その自我が不完全な状態では自我に対する「世界」との境界線が曖昧である

・そのため本来であれば自我の中に収めておくべきものが世界に出る、あるいわ世界に出しておくべきものが自我の中に収められてしまう


という現象が思春期の坊やや嬢ちゃんたちの間で起こってるから、と考えているんです。


んで、リッチー監督の二作目の「スナッチ」なんですが

(ううっホンマに中二病丸出しやなぁ・・)

この映画、最初は主人公が自らの素性を語り出すところから始まりまして、その後主人公にスポットが当たりながら話が進むのかと思いきや、ストーリーは群像劇として登場人物たちをいろんな角度から描いていくんですね。

これが小説だったら最初の主人公の語りだしの部分が 一人称 で書かれるべきだろうし、群像劇であれば 三人称 で書かれるべきだと思うんですよね。でも映画は文章がないことをいいことにこれがごっちゃになってる。

実はこういういい加減さというのは映画だったら多々見られるんですが、演出やら何やらにこだわるガイ・リッチーがこれをいい加減さ故にやってしまうとは考えにくい、意図的なものがあるんです。

一人称(自我)と三人称(世界)が区別がつかないこの世界観。まさにこれぞ中二病!!と言いたくなってしまうようなこの感性で世界中の中二病患者を魅了したガイ・リッチー監督がさらに自我と世界の境界を突き抜けるのが「リボルバー」というわけなんですが長くなってしまったので次回に続きます。