答えはここにあります

引き続き「リボルバー」について書くんですが、もうちょっと脱線してこの映画のおそらくはモチーフになったであろう、アメリカの作家ジム・トンプソンとその作品について書きますね。

この作家兼脚本家さんというのが50〜60年代に犯罪小説を多数発表して、フランスのかの有名なガリマール出版から「セリ・ノワール」の一編としてほとんどの作品がフランス語訳され、映画業界ではスタンリー・キューブリック監督に高く評価されて二回ほど一緒に仕事をしてたりしてます。その一つがタランティーノの「レザボア・ドッグス」の元ネタの「現金に体を張れ」です。

それと原作も映画も不朽の名作の「ゲッタウェイ

んで、「リボルバー」と直接関係ありそうなのがそっくりな精神分裂の場面がある「死ぬほどいい女」(ラストシーンもよく似てます)と「ゲッタウェイ」の原作版なんですね。

ゲッタウェイ」の特徴なんですが、同じ時間軸を別の視点から何度も描く「現金に〜」の方式を冒頭に採用して「いかにもな」犯罪小説のスタイルで始まりつつ(ちなみに全部三人称で書かれてる)、徐々に登場人物の内面を描き出して読者は登場人物の妄想と現実の境がわかりにくくなっていって、最後には主人公の二人はとても現実とは思えない「ガリバー旅行記」に出てくるような世界にたどり着いてそこで別の登場人物の頭の中にしか登場しなかったはずの人物が実在しててもはやどれが現実なのかわからなくなって・・・

という巧妙な仕掛けがスピード感のある読みやすい文章の中に混じってて読者をシュールな世界へと導いてくれるわけです。ちなみにこの話もタランティーノ脚本の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」の元ネタなんですな。


ガイ・リッチー監督はこの「リボルバー」の企画をアメリカに持ち込んだけど断られて、色々と回ってフランスのリュック・ベッソンに受け入れられてようやく完成したという話だからジム・トンプソンの作品群がたどる運命とほぼ一緒なので「人間の内面を描こうとしたためにアメリカ、イギリスに受け入れられずフランスに行った」というのが実状でしょう。

んで、こういう映画を作ることになぜリッチー監督が熱意をかたむけたのか?ということなんですが、やっぱりイギリスという国がアメリカ以上に「グローバリゼーション(よく勘違いされるがグローバリゼーション=アメリカ化ではない)」をうたってるところであり、そのグローバリゼーションの急先鋒に祭り上げられた苦悩があるんではないかと。

なんせグローバリゼーションなんてのは「自己」と「世界」との境界線が全くなくて逆にそれが素晴らしいことだと思ってる中二病の末期症状みたいな大人げなさ100%のメンタリティーが基礎になってる代物ですんでね。

自己が確立されてないから世界とつながってない(同調してない)と不安になる。そのくせ世界が自分の思い通りに動かないとやっぱり不安になる。自己を認められないから世界も認められない、認められないからつながれない、つながれないから自己を認められない・・・これのダウンワードスパイラルですわ。

さて、前回 中二病症状の原因として「自我(自己でもアイデンティティでも言葉はなんでもいい)と世界の境界線が曖昧で本来自己に収めているべきものが世界に出、あるいは世界に出すべきが自己に収められてしまっている」状態を指摘したわけですが、後者の方というのがですね、哲学とか瞑想とかの世界でしか扱われないモノでして、まぁ、世の中上手いことできてるというか、グローバリゼーションとベクトルが逆の方向であるもんだから資本主義・新自由主義の世界にあってはとにかくネガティブな扱いしかうけません。

わかると思うんです前者はとりあえず引っ込めたら終いなんですが、後者は引っ張りださないといけない、これがなかなか難しいんですよ。「もっと世界を広く見ろ!」みたいなこと言う大人はいっぱいいたけど「もっと自分(の中のものを)出せよ!」みたいなこと言う大人はまぁいないですしね。


リボルバー」はそんな時代の空気にツバ吐いて、グローバリゼーションとベクトル反対方向で話が進み「何故か?」の答えをすべて自分の内面に求め見つけ出す、という内容の映画でして、これが例によって「スタイリッシュ(笑」「Ukテイスト(笑」なんてな小細工に彩られて話が進むからたまらない。それに加えて今回はクドすぎるくらい親切な説明台詞を多様して(本来の映画だったら話の展開に不可欠なはずのもの)結局話が説明とおり進まないという大仕掛けのトリックだったりと初期の二作品で僕をゲンナリさしてくれたガイ・リッチー監督の面目躍如の一作になってます。


ちなみに僕の場合は、この監督の映画みてはじめて面白いと思いました