自分失くし

え〜と、そろそろ前々回のお話の続きします。

そう、自分探しの果てに立身出世を成し遂げて「スペシャルな俺様」になる、というパターン(必ずしもハッピーエンドではないけど)の発展小説の世界にフランツ・カフカなる異端児が現れてその形態を大きく変容することとなるのです。

カフカの作品群で語られるテーマはずばり「自分失くし byみうらじゅんさん」です。

話が進むにつれて登場人物のアイデンティティが喪失、あるいは記号化(上の「千と〜」のストーリー展開が顕著)されていくんですね。カフカの後にこのテーマにはサルトルなんかも触れてたかと思うのですが。

このように20世紀も後半になってくると自己発見、自己実現の物語は自己喪失、自己現実化(アイデンティティを喪失して世界の一部と化す)みたいな展開を見せるようになってくる。そうすると映画の世界でもかつてゲーテ作品の主人公ヴィルヘルム・マイスターは回り道を繰り替えして何がしたかったかわからなくなり緑のハインリッヒのようなトム・リプリーは自分が何をしてるのかわからなくなり、ロベルト・ベニーニファウストのように悪魔に魂を売る代りに嘘で自らのアイデンティティを喪失し(つまり悪魔に魂を売るのと同じこと)ナチに殺される、と死屍累々の有様になってしまいます。


ほんで、21世紀、「バットマン・ビギンズ」で割とオーソドックスな発展小説的な「成り上がり物語」を描いたノーラン監督は続いて「プレステージ」という映画を作ります。ここで弟のジョナサンを脚本に起用。
はっきり言って兄の方は演出が古くさくてロマン・ポランスキーとブライアン・デパルマを足してそこからエロスをそっくり抜き去ったような(ここらへんがイギリス人らしいね)作風であまり期待が持てる人ではございません。一言で言ってオールドスクール。しかし、この弟というのが曲者で狂気の匂いを漂わす逸材なんですな。

んで、大の大人がクソ真面目にスーパーマリオごっこやってるような映画「プレステージ」ですが冒頭からマジックショーの禁断の舞台裏を主人公が覗くところから始まってそこで世界の神秘に遭遇する展開というのがなんとなく印象に残る映画でした。(映画としては支離滅裂な内容で昔のファミコンクソゲーやってる気分にさせられて面白かった)

さて、続く「ダークナイト」ですが、前回書きましたようにジョーカーには彼が存在したような街の風景がもはや存在しません。っていうかバットマン然とした世界というのが「路地裏(バットマンの終の住処)」とか「高架下」とか「雑居ビルの屋上」なんですが(何故かホームレスの居場所ですな)、これも現在では古き良き時代の名残りでしかなくて、もはやバットマンの物語が展開する世界(バットマンの原風景)は街から姿をほぼ消しちゃったのよね。


そんな作る前からアイデンティティと住処を喪失してしまった感があるバットマンの世界ですが、これを打破するためにある試みがなされます。それが

メタ設定

というヤツです。バットマンとかジョーカー、トゥーフェイスってなキャラが記号でしかなくてそれらに生身の人間が成りきってストーリーが進むっていう感じです。特設ステージ随時設置しつつ(笑

ノーラン兄というのが実は演劇的な「間」にこだわる演出が得意でして、おそらく演劇が好きなんでしょう。そして役者が役になりきることに対して持つ情熱や、役者たちが舞台という虚構の世界に役になりきることで、実生活ではわからなかった世界の真実を見出そうとする哲学的な側面に何らかの関心があるんだと思うのですが、要は「ダークナイト」内のバットマンとジョーカーの対決は劇中劇ともいうべきものと、小学6年生で「ハムレット」を読んだ僕なんかは思ってしまいました。言い換えればバットマン版「覇王別姫」(笑 ティム・バートンのシリーズ2作目「バットマン・リターンズ」は実際こういう趣向があったしね。


さて、ティム・バートン版の第1作ではバットマンは「資本主義が産み落とした不義の子」でジョーカーは「共産、社会主義が見捨てたプロレタリアート」であり、この二人の対決はすなわち米ソ冷戦への痛烈な皮肉になっていた(二つのイデオロギーがもし完璧ならばこの二人は決して誕生しなかった)わけですが、はてさて「ダークナイト」にはそんな社会派メッセージはあるのか?


というところで次回に続きますよ。