時代は変わるのか?

とうとう観てしまった「GOEMON」。キリヤのだんながまたやってくれました。

CGフル活用の映像美は「キリヤ・イズ・バック」という感じであの「CASHERN」の悪夢が再びって感じすが、随所で言われてるように今回普通におもしろい映画になってて肩透かしくらったっす。

確かにね、面白くないより面白い方がいいに決まってるけども、新機軸をさほど出さずにキリヤワールドをひたすら煮詰めて面白さを引き出したんなら進歩がないってことになってしまいますんで、新機軸を打ち出し過ぎてわけわかんない映画をもっとたくさん作って「太く短く豪快に」生きて欲しいと望まずにいられません。今の日本に足らないのは正直そういう感性なんすから。

そういう批判的な意見はさておき、今回の数少ない新機軸の目玉は何といっても

アンチに対する地雷攻撃でしょう

いるんですよ、悪口書く目的で映画観る人。でもそういう人って(嫌いな映画観るのに)耐えられなくて途中退出するわけなんですけど、そういう人たちを罠にはめるために今回は”人物の相関関係が劇中で変化する”という小技で対応しております。

まずですね、江口”湘爆”洋介兄ぃ扮する五右衛門と宿敵の大沢たかお御大扮する才蔵の「自由気ままに暮らすフリーター」と「豊かさのために自由を失った正社員」になぞらえた「90年代型の若者たちのその後の姿の対比」みたいな展開があるんですよ。途中までは。だから途中退出した人がここだけ観て批判すると最後まで観てないのがバレる。

んで、キリヤワールドの常識として「善人も悪人も存在しない」というのがあるようで、義賊である五右衛門とそれと中盤以降宿敵となる奥田”バンキッド”瑛二叔父貴扮する暴君秀吉、この二人が信長(回想シーンのみ登場)の存在が浮上して初めて何者であるかがはっきりわかるわけなんす。詳しくは語らないですが、この二人も表裏一体でどちらも人間の幸福について哲学的に探求しようとしてた信長が生み出したエゴが肥大化したモンスターって感じですかね。だから最低でもここまで観ないとストーリーに関してアレコレ語れない。

ついでに日本映画について「台詞で説明するからバカっぽい」という批判がありまして、故山城新伍がよくこの話題出してましたけど、さすがはキリヤのだんな、最初っからゴチャゴチャ説明するのが嫌いなお方(笑 説明台詞の中には事実に反するものが混じっており後の展開でどんでん返しに使われたりします。

そして、もう一つ新機軸(?)「役者の演技力への依存」というのがありまして、とにかく役者の演技見せるのに時間を割いてるんですね、この映画。どういうことかと言うと前作の批判がアニメファンからの「こういう作品はアニメでやるべきだよ。こんな実写CG映画作らなくていいよ」というのが多かったもんですから「アニメじゃこんなことできんだろうが、ああ?」と役者さんの名演が光るようにシーンが構成されてたりする。「それはやっちゃマズいでしょう」みたいなシーンやカットも役者さんを「見せる」ために多様してますわ。これがまた、全員見事なくらい微妙に低めのテンションで演技してらっしゃって、まるで長尺の映画になることを見越してみなさんお客さんが疲れないようにテンション調整なさったんではなかろうか?と思ってしまうほどいい塩梅の演技してるんす。下手な演技ならいくらでもテンション上げれるけど下げるとなると達者な人でないと難しいですもんね。個人的に奥田御大の「ブッシュ入ってるのもろわかり」の表情の演技と要潤扮する石田三成の「はい、ご存知小泉ですよ〜」な演技がツボにハマってしまいました。

今回は時代がブッシュ政権小泉政権から変わって新しい体制に移ろうとしてた時ということで、そんな時代に人々に希望をもたらすヒーロー像を作ろう、といのがテーマだったかな〜?と思いました。


個人的に「カート・ラッセル扮するスネーク・プリスケンに対する日本からの回答」という印象が強い(ラストがモロだもの)この映画。前作の「娯楽作品でどれだけ崇高なテーマを表現できるか?」みたいなキリヤイズムの真骨頂と勝手に僕が思ってる部分というのが今回ちと薄れてるような気がして完成度が上がった半面残念な感じがしましたので次作は是非とも「そんなこと普段考えて生きてるやついないし、映画にそれを求めないよ」と日本国民全員から鼻で笑われるくらい壮大かつ崇高なテーマを扱っていただきたい。何故なら「宗教」でそれを語るやつは大勢いてもそれ以外の手段でそれを語る人間が今の日本に誰もいないのだから。