80年代しゅーりょー


レディ・ジョーカー [DVD]

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う〜ん、「80年代の終焉」というテーマで「レディ・ジョーカー」について書こうと思ったが文章がまとまらない。
でも、まとまらないからと書くのをためらうのも僕らしくないのであえて書こう。

このレディ・ジョーカーこそが日本における80年代という時代の終焉を高らかに宣言した「映画」である。「映画」としたのは原作小説を読んでないからだ。すまん。

原作は読んでないけど高村はんのことなので「個人と組織」がテーマの作品になってると思う。
が、しかしだ。映画の方は80年代を揺るがした「グリコ森永事件」をモデルにして作られ、なおかつ、同時期お茶の間の人気者であった渡哲也(しかも「西部警察」では正義の人だ)と吉川晃司がその犯人に扮しているというからこれが面白くないわけない。
これが僕がこの映画に80年代という時代性を見出した決定的な点なんだけど、恐るべきはこの二人のキャラというのが渡は大門警部と吉川は素とほぼ変わらんという点ですわ。

しかもグリコ・森永事件の犯人「怪人二十一面相」と同じように某ビール会社の社長を誘拐したり商品に毒物混入したりと実在の事件とほぼ同様の犯行を行うのに犯人グループ「レディ・ジョーカー」といえば、まんま西部警察の面子と同じノリなのである。悪者なのに。

んで、話は飛んで、60年代から70年代にかけて「公害」問題なんてのが話題になってたんだね。大企業の工場から公然と有害な物質が流されてて市民はこれに怒りの声をあげてたもんです。ところがこれが80年代になると見事なほどにこの怒りの声が静まりますねんや。要は豊かさを手に入れるために日本人が大量生産大量消費主義を受け入れてこの大企業の不正を許してしまったんやね。

そんな世相と大量生産大量消費型資本主義を嘲笑うかの如く現れたのが劇場型犯罪の雄「怪人二十一面相」というわけなんす。彼らはふてぶてしくも「正義の味方 月光仮面」の生みの親河内康範に向かって「月光仮面が悪を正す時代は終わった、日本人の心にもはや正義はなく、一見悪党に見える自分たちこそが時代の申し子であり、時代の勝者である」と宣言するんすよ。これ、バットマンの新作のあらすじじゃなくて20数年前に実際に日本で起きた事件だからね。現実は小説より奇なり。

そこで、話は戻って「レディ・ジョーカー」の中で犯人たちは見事現金を奪い警察につかまることもなく、間違いなく勝者となりますねん。

え?作品観たけど不幸になった奴の方が多いだろ、って?さて、そこでこの「勝者」の定義が問題になるわけだす。

90年代に入った途端、世間では「オルタナティブ」という言葉が流行りだすんやけど、これは「二者択一」とか「代替案」とかいう意味なんやね。ということは裏を返せば80年代にはこれがなかった、つまり80年代は「オンリー・ワンウェイ主義」の時代だったっちゅうことや。「人間が欲望の赴くままに生きた80年代」なんて言われることが多い時代やけど何のことはない、それしか生きる道がなかったし、まして幸福を追求(憲法で保証されてる権利ですよ)しようとするならば、いかなる手段を使っても他者を出し抜いて勝者にならなければならない時代だったわけ。少なくとも幸福になろうとするなら最低条件である「選択の自由」を手に入れなければならんかったわけやから。

劇中、辰巳琢郎扮するビール会社の副社長(同族企業の次男)がある自らの過ちについてこう語る。「私には他にどうしようもなかった」これが豊かさに惑わされて時代を見誤った男の最後の言葉となるんやね。この台詞の直後自殺してしまう。

そして、ラスト近くで犯人グループの渡は自分たちについて「なるようにしかならない運命を受け入れてなるようにしかならん人生を歩んできた者たち」と言うわけなんですな。何故自分たちが勝者となれたのか?の種明かしをするわけ。豊かさに惑わされず世間の厳しさを肌で感じながら実存主義的に運命を受け入れて生きてきた連中の集まり、つまり彼らは時代のエリートであった、と。

果たして、「物にあふれた、しかし選択の自由のない世界」をたくましく生き抜いて遂にその世界をも打ち負かして勝者となり選択の自由を手に入れた渡が望んだものとは一体・・・・・・・。




おまけの話になるけど、80年代後半のバブルの頃に深夜番組で「大阪の夜遊びの帝王に密着取材」というのをやっておりまして、本当に生まれながらにお金持ちで繁華街のあらゆるところに顔が効いて、友達もめちゃくちゃ多いという夜遊び名人がテレビに出ておったんですが、その人が最近ハマっているものは?と聞かれて答えたのが子供でも普通にやる「ファミコン」だったんですわ。数ある選択肢の中から彼が選んだのはファミコンだった、と。